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カウンティング ブラックジャック

創業からの70年 昭和43~53年度

第3章激動の時代

カウンティング ブラックジャック

第3節カウンティング ブラックジャック活動の進展

1.カウンティング ブラックジャック量の増大

昭和44(1969)年度から53年度までの期間、一時的にはドルショックとオイルショックの影響を受けたが、カウンティング ブラックジャック量は著しく増大した。

44年度の売上高は、前年度比38%増の282億円余を記録した。

48年度には創業以来初めて売上高は500億円を突破したが、オイルショックによる30%を超える卸売物価、20%を超える消費者物価の上昇を考えれば、実質上の伸びはほとんどないに等しかった。

50年度から52年度の間、内線部門の受注の落ち込みと冷暖房部門の低迷に対して、全社を挙げて収支改善に取り組んだ。その一環として、53年には内線・冷暖房部門からカウンティング ブラックジャック量増加の著しい配電・地中線部門へ約300人の配置転換を実施した。景気が回復に向かった53年度には、完成カウンティング ブラックジャック高は941億円に達し、1,000億円にいま一歩と迫った。

2.発展を支えた部門活動

配電部門

オイルショックの影響を受けて、昭和49(1974)年度と50年度の配電部門のカウンティング ブラックジャック量は減少した。51年度になると配電線の絶縁化カウンティング ブラックジャックが開始され、このカウンティング ブラックジャックは53年度をピークとして57年度に完了した。柱上油入開閉器のオイルレス化カウンティング ブラックジャックも51年度から53年度にかけて実施された。

これらのカウンティング ブラックジャック増加に対応するため、施工能力の確保、技術・安全・接遇面向上のための指導、教育を実施した。また、高所作業車、電線巻取機、発電機、コンプレッサーなど車両や機械および器具類の改良・開発・採用に努め、機動化・機械化を推進した。

43年度より、中部電力から支給されるカウンティング ブラックジャック用資材をメーカーから直接当社の倉庫に納入する直配制度が実施された。これにより、支給資材の調達は円滑に行われるようになった。

電力部門

電力部門は、オイルショックの影響を受けることも少なく、順調に受注を伸ばした。

送電線カウンティング ブラックジャックでは、渥美火力線、西部幹線、東部幹線、信濃幹線、伊勢幹線をはじめ、多くの大型カウンティング ブラックジャックに参入した。これらの施工に際して、鉄塔基礎カウンティング ブラックジャックではリバース工法(注)やオープンケーソン工法(注)および山岳地での深礎基礎工法の採用、電線架線カウンティング ブラックジャックでは新型のエンジン延線車の使用、長距離延線工法やプレハブ架線工法の採用、ヘリコプターによる人員や資材の運搬など、各種の新技術・新工法を導入して、当社の技術力を発揮した。

変電所カウンティング ブラックジャックでは、中部電力西名古屋火力発電所の屋外変電所の新設、および浜岡原子力発電所の27万V屋内変電所機器据え付けなどを行った。これらの施工実績をベースにして、一般需要家からの変電所や変電設備の新増設カウンティング ブラックジャックの受注も次第に増加した。

西部幹線カウンティング ブラックジャック
西部幹線カウンティング ブラックジャック

(注)リバース工法
鋼管を埋設し、支持層と呼ばれる地盤まで掘り進め、最後に孔に鉄カゴ、コンクリートを入れ鋼管を抜き取る工法。

(注)オープンケーソン工法
構築物を地上で構築し、内部を掘削して地下に埋める工法。

地中線部門

地中線カウンティング ブラックジャックは、昭和49(1974)年頃から都市化の進展とともに著しく増加し始めた。53年度には政府の景気刺激策の一環として採り上げられたこともあって急増し、大口部門の完成カウンティング ブラックジャック高434億円のうち65億円を占めるようになった。同年、7万Vケーブルの接続カウンティング ブラックジャックを受注し、施工を開始した。

内線部門、冷暖房部門

内線および冷暖房カウンティング ブラックジャックはオイルショックによる伸び悩みを打開するため、昭和52(1977)年9月、全従業員による営業の展開、労働生産性の向上、原価の低減、組織・要員の見直しなどの施策を実施した。さらに、技術力および施工力の向上に努めた結果、年とともに業績を伸ばすようになった。

44年から53年にかけての主な完成カウンティング ブラックジャックは、名古屋駅前地下駐車場、静岡県庁舎、中日新聞本社社屋、名古屋観光ホテル、マキタ電機製作所本社工場・岡崎工場、十六銀行本店などである。

海外部門

昭和43(1968)年の沖縄撤退以後、海外カウンティング ブラックジャック部を廃止していたが、50年6月に海外カウンティング ブラックジャック部を再設置し、エンジニアリング会社や商社に対する営業活動を開始した。

51年にはアルジェリアのバハラット石灰会社(BCL)プロジェクト電気カウンティング ブラックジャック、52年にはイラン・ジャパン石油化学(IJPC)関連カウンティング ブラックジャックの大型カウンティング ブラックジャックなどを受注した。

51年12月、海外事業部はプラント部を統合して体制を整えた。52年2月にはイラン支店を開設してIJPCカウンティング ブラックジャックの施工を進めた。しかし、約70%を施工した54年1月、イラン革命の発生によりカウンティング ブラックジャックの続行は不可能となり、当社の関係者1人を除いて全員帰国、このカウンティング ブラックジャックからの撤退を余儀なくされた。

小口部門

小口カウンティング ブラックジャックは、内線部門の技術指導によって次第に実績を伸ばし、業績を向上させていった。昭和53(1978)年度には内線部門から技術者を受け入れて、その後の業績伸長に役立てた。しかし、小口カウンティング ブラックジャックは中小電気カウンティング ブラックジャック業者との競争の激しい市場であり、営業活動は苦戦を強いられた。

商事部門

当時、商事部門は電設資材の販売と家電製品の販売を行う部門であったが、顧客が限定されているため、絶えず新商品の販売に努める必要があった。昭和42(1967)年以降、毎年「ニコニコフェスティバル」を開催し、家電製品の拡販を図った。

51年5月には、資材部の商事課を商品販売センターに名称変更した。

3.カウンティング ブラックジャック場の整備

昭和44(1969)年、設備委員会を設けてカウンティング ブラックジャック場整備5カ年計画を策定し、実施に移した。この5年間に新築したカウンティング ブラックジャック場数は38に上った。

5カ年計画の終了後も、49年下期から53年下期までの間に、大阪支社と津支社を含む18カウンティング ブラックジャック場の整備を実施した。

4.機動化・機械化の推進

大型カウンティング ブラックジャックや新工法を要するカウンティング ブラックジャックが増加したため、新鋭の作業用機械・機動車の導入を一段と進め、施工の合理化を推進した。

昭和50(1975)年に電線巻取機を開発し、これを搭載した小型トラックを配備して、電線絶縁化カウンティング ブラックジャックの能率向上と安全確保に成果を上げた。さらに51年には、穴掘車と建柱車の両機能を併せ持つ型のトラックを開発して台数の圧縮に努めた。53年には高所作業車のブームの絶縁化を図るとともに、バケットの首振り・ウインチ機構を備えて、作業性、安全性、経済性を向上させた。また、使用材料の増加と大容積化に対応するため、外線作業車の1個班当たり2台化を推進し、52年度に完了した。

事務機械化は38年の給与計算に始まり、人事労務、資材、委託カウンティング ブラックジャック、大口カウンティング ブラックジャック、小口カウンティング ブラックジャックなどの機械化を進めた結果、50年代前半には定型・大量業務についてはほぼ機械化を完了した。

50年に本社営業部および内線部にオフコンを導入し、積算業務を行った。これは当社における部門分散処理の第1号であった。51年には工務部にパソコンを導入して送電線鉄塔基礎計算を行った。また、53年には冷暖房部で日本電信電話公社(現・NTT)のDEMOS-Eを利用して空調負荷の動的計算を行った。

電算機室(昭和38年頃)
電算機室(昭和38年頃)