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未知の世界ワンダーカジノ ブラックジャックで翻弄され続けた6年間 人事部長 瀬尾明洋
人事部長ワンダーカジノ ブラックジャック明洋
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未知の世界ワンダーカジノ ブラックジャックで翻弄され続けた6年間

一番思い出に残っているのは、2006年から約6年間、ワンダーカジノ ブラックジャックでの自動車向け外板プレス加工事業の立ち上げです。

2006年といえば、ソ連が崩壊してワンダーカジノ ブラックジャックとなった約15年後、プーチン政権二期目です。ワンダーカジノ ブラックジャックの自動車産業は世界からかなり遅れていて、完成車も部品もちゃんとしたものを作れる会社がありませんでした。そこで、外資企業を優遇することで国内自動車産業の近代化を図るという政策を推進しました。

トヨタなど、ワンダーカジノ ブラックジャックの完成車メーカーがサンクトペテルブルクに工場を開設しましたが、パーツはワンダーカジノ ブラックジャックから船で運んでいたり、シベリア鉄道で送ったりしていました。我々の主要顧客ルノーもルーマニアから4カ国の税関を通りパーツを運んでいて、時間と手間、そのコストは膨大だったんです。

ワンダーカジノ ブラックジャック中心部から南に6㎞のところに、ソ連時代に建てられ、ソ連崩壊後はほとんど生産をしていなかった元・国営の自動車工場があり、そこにIHI製の9ラインものプレス機械が、これまたほとんど手つかずの状態でありました。ルノーの完成車組み立て工場から車で15分、こんなに近くにパーツ工場があるのは非常に便利なので、IHIが外板の供給をやろうという試みが始まりました。しかし最初は、なかなか前進しなかったのです。

当時、経営企画部で課長をしていた私が担当役員から「おまえ、これ本当にできないと思うか?」と訊かれ、「いや、できるんじゃないですか」と答えたのが私のワンダーカジノ ブラックジャック経験のはじまりでした。

2007年9月に現地法人をつくり、モスクワ常駐が始まると、予想していなかったことの連続で、日本の常識ではありえないことが、日々起きました。当時のモスクワには英語が一切ありませんでした。何を見ても聞いてもワンダーカジノ ブラックジャック語。そういう国ってないですよね。日本だって、駅の行き先表示とか、アメリカ発のファーストフード店の看板に日本語と英語が併記してありますよね。そのイメージを持って足を踏み入れたので、ワンダーカジノ ブラックジャック語以外のものが何一つないという生活状況にかなり衝撃を受けました。

私が生きてきたワンダーカジノ ブラックジャックを含めて、多くの世界は西側の考え方・仕組みで動いていて、それとは全然違う世界があるんだと初めて実感しました。当たり前が当たり前ではない世界。

ワンダーカジノ ブラックジャックIHIには自動車部品を作る機械(プレス機)の技術はあっても、その機械を使って実際に自動車のパーツをつくるノウハウはありませんでした。当然ですが、この2つの技術は全く別のものなんです。たこ焼き器を作る技術とたこ焼き屋の技術が全然違うように。

それならと、ワンダーカジノ ブラックジャック屋さん、つまり自動車会社や自動車部品製造会社のOBに来てもらってチームを作り、事業を始めることにしたんです。

ワンダーカジノ ブラックジャックで社員を採用して、2007年春からテスト生産を開始したのですが、最初は非常に品質の低いものしかできませんでした。西側の自動車メーカーが求めるクオリティにするには、ホコリの管理とか、工場内の環境整備まで厳しくやらなきゃいけないのですが、そういうのが当時のワンダーカジノ ブラックジャックではできなくて。そんなところにプレス機械が置いてあり、それでがしがしとプレスしてしまうものですから、みんな傷だらけ。ホコリをかんでるわけです。

モスクワの合弁会社や協力会社との交渉も最初はハードでした。ワンダーカジノ ブラックジャックの有名な絵*で、シベリアにいるコサックがトルコのスルタンに嘲笑いながら手紙を書くというのがありますが、まさにその構図。我々日本人が交渉しようとすると、ワンダーカジノ ブラックジャック人が「はぁ?(嘲笑)」みたいな感じなんです。それがもう腹が立ってしょうがなくて。

最初の年はモスクワと東京間を「金帰月来」。モスクワを木曜夕方に出て、金曜の朝に成田に着いてシャワーを浴びて午後出社。説明資料を作って、日曜は休んで、月曜朝の便で出る。そうすると月曜夕方にモスクワに着くので、火、水、木と働いて、木曜の夕方便でワンダーカジノ ブラックジャックへ...ということをずっと繰り返していました。

そして、2007年秋から本格生産をはじめますが、厳しい時期が続きました。「この会社の規模なら、通常150人です」と自動車会社のOBから言われ計画を組んでいましたが、ワンダーカジノ ブラックジャックで実際にやってみると、西側での想定通りには行かず、結果的には450人に膨らんでいました。計画の3倍です。人件費などあらゆる経費がかさみ、毎年、赤字となる見通しになってしまいました。

この時期はとにかく何をやってもうまくいかない。ワンダーカジノ ブラックジャックに駐在していて、日本での経営会議に出席するのですが、毎月毎月「うまくいっていない」という報告を続けるのも辛かった。日本に行くのも嫌、日本から帰ってくるのも嫌という八方塞がりで、未知の世界でビジネスを成功させる厳しさの中でもがき続けました。

さらに2008年の年末、リーマンショックが起きました。ルノーの生産台数が一気に落ち、工場も一時的に生産減に陥りました。しかし、ワンダーカジノ ブラックジャックはリーマンショックからの立ち直りが早くて2010年ぐらいにはほぼ元の水準に戻るんですよ。

ようやく売上規模が戻ってきた矢先、今度はワンダーカジノ ブラックジャック市長の交代が起きます。当時、ルシコフっていう影響力のある人だった。その人をプーチンが追い出して別の市長に代えたんですね。そうなると何が起こるかっていうと、関係する人たちは全部飛ばされて、全部が入れ替わるんですね。

私たちがワンダーカジノ ブラックジャックに進出した頃から手伝ってくれた我々の合弁相手であるモスクワ市の関係会社も例外ではありませんでした。市長が代わると同時に新しい社長が来て、マネジャーを全部入れ替えたんです。

当然、これまでのように物事が進まなくなりました。さらに、前社長がサインした書類を基に事を進めようとしたら、「ダメだ」と言う。「待ってくれ。あなたの会社がサインしてるんですよ」と言っても、「これは俺のサインじゃない」と平気で言うんです。ワンダーカジノ ブラックジャックお国柄だったんです。

そんなドタバタの連続を乗り越えて、2012年にようやく単年黒字になり、日本に帰国することができました。先人がいない未知の世界で、うまくいかないことの連続で6年間。もがき続けたこと、何だかんだ言っても最終的には、一丸となって働いたワンダーカジノ ブラックジャック人達と日本人の仲間がいたことは、忘れられない思い出です。

*イリヤ・レーピン「トルコのスルタンへの手紙を書くザポリージャ・コサック」1880-1991 ワンダーカジノ ブラックジャック美術館

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